大内と平野の説明

 平野の寺山の麓に鎌倉時代のものと思われる五輪塔がある。

これを土地の人は、代々「ヒラノサマ」と言い伝えて崇めている。「ヒラノサマ」というのは平野太郎のことで大内成保が平野を統治するようになって土地の名を取って平野太郎というようになった。

 大内成保について調べることにする。大内家系図を紐解くと、第十九代大内弘成の子に貞保がいて、その子に成保がいる。貞保がすでに黒川祖となっていた。

成保が平野の祖となって平野太郎というようになった。平野と黒川は隣接している。

大内貞保と成保父子が、黒川と平野の祖となって治めていた。

 大内の始祖といえば、先ず下松を思い出す。そこの鷲頭荘の鼎の松に七日七夜、星が降り輝いて神童が下り立ち、「三年後に百済の王子・淋聖太子が来る。この国の災難を取り除く。皆これに従うべし」と宣言した。驚いた土地の人が、桂木山に神童の社を建てれば、その社が輝いて船が航海できない。

社を近くの高鹿垣山に移すと更にひどく輝いて眼も開けられなくなった。鷲頭山に移転するとようやく航海できるようになった。星の降りたこの地を降松といっていたが、いつしか下松というようになったそうだ。

 神童のお告げどおりに、三年後に百済国の聖明王の第三王子の淋聖太子が、元十九年(六一一)、推古天皇の世に三田尻(防府)の多々良浜に三月一日に着いて、二日間ここに滞在し、三日に山口の方に向かい、大内荘に住み着いた。土地の名をとって大内というようになったといわれている。

時の権力者聖徳太子に厚遇されて、国衙の役人に任命されて勢力を拡大するようになった。

その十九代目の大内弘成の子の貞保が、黒川地区を治めて黒川氏と称し、その子の成保が、平野を所有し、平野氏と名乗ったのだった。

         平野日吉神社      大内成保の五輪塔